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避難所で予想される混乱・トラブル [第1章「なぜ2か月なのか」]

首都直下地震に被災した場合、仮に自宅に被害がなくても、水や食料の蓄えがなくなってしまえば、避難所に身を寄せるしかなくなります。

そこで、今回は、避難所の状況を予想してみます。

2005年7月の中央防災会議「首都直下地震対策専門調査会報告」からの引用です。

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東京湾北部地震において初日に約 700 万人(18 時,風速 15m/s)の避難者の発生が予測される。そのうち、避難所生活者は約 460 万人である。1 ヶ月後に断水人口が5%まで復旧した場合でも、約 270 万人の避難所生活者が残存するものと予測される。(一部省略しています)

これに伴って、以下のような問題が想定される。

[飲食料・生活必需物資の不足]

避難所生活者数が膨大なことから、家庭内備蓄や地元都県及び市区町村による公的な備蓄だけでは、必要量の確保が困難となる。

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被災の想定に「断水人口」が関係しているのは、自宅の水道が出るかどうかが、避難の判断に大きく影響しているためです。

中央防災会議が避難者数を推計する時に使う数式は以下のようなものです。

(被災翌日)

・避難人口=全壊・焼失人口+0.503×半壊人口+0.362×断水率×被害なし人口

阪神・淡路大震災の被災者に行ったアンケート調査の結果、被災の翌日に避難した人は全壊住宅で 100%、半壊住宅で 50.3%、軽微又は被害なし住宅で36.2%いたことから導き出された数式です。住宅に被害がなくても、水が出なければ、3割以上の人が翌日には避難してしまう想定になっています。

(被災4日後以降)

・避難人口=全壊・焼失人口+0.503×半壊人口+0.362×断水率×被害なし人口+0.91×(1−0.362)×断水率×被害なし人口

被災翌日の避難者数に「0.91×(1−0.362)×断水率×被害なし人口」を加算した式です。加算した部分が何を意味しているのかといえば、

「被災から4日後になると、断水にもかかわらず自宅で暮らしていた人のうちの91%が、避難を始める」ということです。阪神・淡路大震災後の都市住民の意識調査で、断水が続いた場合、被災から4日後で約 91%が「限界である」と回答していることを根拠にしています。

4日目以降の数式を展開、整理すると以下のようになります。

・避難人口=全壊・焼失人口+0.503×半壊人口+0.94258×断水率×被害なし人口

4日目以降で、全壊・焼失人口、半壊人口、被害なし人口が大きく変動するとは思えませんから、避難人口はもっぱら、断水率=水道の回復具合によって決まるということになります。

さて、国の想定では、水道の復旧が予想通りに進んだ場合でも、被災後1か月たっても、一都三県の避難所に270万人もが暮らしています。

東日本大震災や阪神・淡路大震災と比較して見ます。

避難所生活者の数 1か月後
東日本大震災 147536
阪神・淡路大震災 209828
東京湾北部地震 2700000


文字通り、ケタ違いに多数の人たちが、避難所暮らしを余儀なくされるのです。

では、被災後の避難所はどんな様子なのでしょうか。内閣府のHPに紹介されている阪神・淡路大震災や東日本大震災のデータを拾ってみました。

 <阪神・淡路大震災> (被災から72時間までの様子です)

◆神戸市内での救援物資配布状況によれば、発災当日の食糧は、1月下旬の1/5。安定するのは1月26日頃[松井豊・水田恵三・西川正之 編著『あのとき避難所は 阪神・淡路大震災のリーダーたち』ブレーン出版(1998/3),p.31]

地震が発生した1月17日から20日頃までの間は、避難者にとって食料、毛布とも不足気味であり、神戸市では食料、西宮市では毛布の配布数が少なかったことがわかる。このような状況に陥ったのは、十分な備蓄物資がなかったこと、義援物資の受け入れに忙殺され配布までに手が回らなかったこと、正確な避難所数や避難者数の把握が遅れたこと、物資配布のための輸送手段がなく、また、主要道路が極端に渋滞していたこと等々の要因が考えられる。[『阪神・淡路大震災調査報告書 −平成7年兵庫県南部地震東京都調査団−』東京都総務局災害対策部防災計画課(1995/7),p.259]

◆ (兵庫県立兵庫高校)夜、避難者一人につきパン1個を教職員が配布しようとしたが、全員に行き渡らない。配給時には混乱し、制止もままならない状況で、配給している教職員の胸ぐらをつかみ「もっともってこんかい」と怒りをぶつける避難者もいた。[『震災を生きて 記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育』兵庫県教育委員会(1996/1),p.85]

◆ (神戸市長田区の蓮池小学校)午前七時に、おにぎり千食が用意されたが、あっという間になくなった。同八時にはカンパン千二百食が配布されたが、列を作った全員には行き渡らず「不公平だ。整理券を配れ:と職員の詰め寄る住民も。[毎日新聞夕刊『飲まず食わず 募る不安』(1995/1/18),p.-]

◆ (神戸市兵庫区・神戸市立兵庫大開小学校)19時半、兵庫区役所から、食パン6,000個と菓子パン3,000個が届いたので教職員が配布。避難者全員分(2,000∼3,000人)には足らず、騒然とする。そのとき、報道のカメラマンがフラッシュをたき、避難者に殴打される。[『震災を生きて 記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育』兵庫県教育委員会(1996/1),p.120]

◆交通事情の混乱のために場所によっては大幅に物資の搬入が遅れ、避難所では当初大きな混乱が起きた。1000人以上の避難者がいたのにかかわらず、17日夜までに握り飯150個、リンゴ2箱しか届かず、不足しすぎているため翌朝まで配分できなかった例。18日になってパンなどが届き、民生委員や自治会役員等に世話を頼んで配分したが絶対数が足りないためにパニックになった例。17日夜、パンなどが届き、個数は十分あると判断して校庭に並んでもらったが列がいつまでも途切れず、最後には半分にしたがついになくなり、子どもが持っていたパンを大人が奪い取って行ったり、配給していた教職員が蹴られ危険な状態になったという例など、当初の食糧配給時に大混乱になったところが多い。[『震災を生きて 記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育』兵庫県教育委員会(1996/1),p.71]

◆(被災地市民グループインタビュー結果)避難所でたこ焼きを焼いて無料で配ったことがあったが、数に限りがあるので並んでいる人だけに配布すると言っても、中にいる家族の分も求められ、トラブルになったことがあった。物資の配布を早い者勝ちにしたり、段ボールで区画を作ったりして、大規模の避難所では混乱していたところが多かったようだ。[(財)阪神・淡路大震災記念協会『平成11年度 防災関係情報収集・活用調査(阪神・淡路地域)報告書』(2000/3),p.15]

◆行政機関から、1人1枚ずつわたる数になるまでは配布しないよう指示があり、切望する避難者が目の前にいながら配分出来なかったという例。食糧についても同様の指示があり、置いたまま腐らせてしまったという報告もある。[『震災を生きて 記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育』兵庫県教育委員会(1996/1),p.71]

◆ (伊丹市立池尻小学校)9時頃、市災対本部からパンと牛乳が届き、教職員が配布を始める。あせって前の人を押しのける人もおり、パニックになった。一人で二回並んだ人も多く、結果的に足りなくなった。この後、近くの量販店が開店していること、個人的な差し入れ等があることがわかり、混乱は少なくなってきた。[『災害と対応の記録ー阪神・淡路大震災ー』伊丹市(1997/3),p.107-108]

◆ (神戸市長田区・神戸市立志里池小学校)夜、区災対本部からコッペパンとゆで卵が届く。一人一個は到底行き渡らないので、元PTA会長等が中心になって数人でちぎって配布することにした。[神戸市教育委員会『阪神・淡路大震災 神戸の教育の再生と創造への歩み』(財)神戸市スポーツ教育公社(1996/1),p.140]

◆[引用] (芦屋市立宮川小学校)夕方、市災対本部から19時に弁当が届くという連絡があったが、実際には21時におにぎり1,000個が届いただけだった(避難者一人一個)。おにぎりは、運動場に設置したテントで配給し、病人(約30人)には、教職員と避難者有志が枕元に届けた。[『震災を生きて 記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育』兵庫県教育委員会(1996/1),p.115]

◆[引用] (西宮市立安井小学校)夕方、初めておにぎりの差し入れ(490個)が届いた。しかし、避難者が1,000人を超えていたので、老人と子どものみに配布する。[渥美公秀・渡邊としえ「避難所の形成と展開」『阪神大震災研究1 大震災100日の軌跡』神戸新聞総合出版センター(1996/5),p.83]

◆ (神戸市東灘区・神戸市立福池小学校)12時、老人会会長が近所のスーパーからパンと牛乳等をもらってくる。牛乳は小分けして配ったが、全員には行き渡らない。[『震災を生きて 記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育』兵庫県教育委員会(1996/1),p.58]

◆ (西宮市立大社小学校)15時、救援物資のおにぎりを避難者2人に1個、買い出ししてきたバナナを1人に1本配布する。[『震災を生きて 記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育』兵庫県教育委員会(1996/1),p.58]

 ◆ (既存アンケート調査のまとめ) 明石市民の地震発生当日の行動を見ると、「食料品の確保」のため、多くの市民がスーパーや食料品店に殺到したため、品切れの店が続出した。[『平成10年度防災関係情報収集・活用調査(阪神・淡路地域) 報告書』国土庁防災局・(財)阪神・淡路大震災記念協会(1999/3),p.79]

◆(被災地市民グループインタビュー結果)当日朝9時30分頃に地域唯一の店舗に買い物に行くと長蛇の列ができていた。一人二点ということだったが、既に残っているのは調味料だけだった。...(中略)...2日目も店舗では2点ずつしか買えず、家族が増えた家が多い中でみんな大変だったが、「赤ちゃんがいる家庭を優先させよう。皆でゆずりあいましょう。」と大きな店舗の中で、何人かで叫んでお願いした。」[(財)阪神・淡路大震災記念協会『平成11年度 防災関係情報収集・活用調査(阪神・淡路地域)報告書』(2000/3),p.15]

次に東日本大震災の避難所を見てみます。国が実施したアンケート調査の一部です。

被災三県の避難所アンケート調査 


単位% 毎日、おにぎりやパンのみ おにぎりやパンに、時々、おかずが加わる おにぎりやパンに、時々、おかずや温かいもの加わる 毎日、おにぎり、パン、おかずが出るほか、時々温かいもの加わる 毎日、おにぎり、パン、おかず、温かいものを食べられる
4月6〜10日 0.3 1.9 22.3 15.5 60.1
4月13〜17日 0 1.6 11.7

16.3 

70.4
4月20〜24日 0.2 0.4 10.8 16.2 72.4
5月9〜13日 0 0.4 8 15.5 76.1

 

被災は3月11日ですから、1か月後にも3割の避難所で、十分な食料が行き渡っていないことがわかります。このうち、1割強は、おにぎりやパンに「時々おかずや温かいものが加わる」程度の食事を続けています。

ここで、次のグラフを見てください。

自治体職員数と避難者数.jpg

黄色い棒グラフは、避難所生活者数です。赤い菱形の点は、自治体職員一人当たりの避難所生活者数です。自治体職員数は県、市町村すべてを単純合計しています。 もちろん、自治体職員全員が避難所のお世話をするわけではないのですが、ざっくりと規模感を比較したいと思います。

 東日本大震災では、ピーク時で避難所生活者は45万人、自治体職員1人当たりで3人でした。 これに対し、「東京湾北部地震」では、ピーク時の避難所生活者数が460万人で、自治体職員1人当たりの人数は7人超。被災1か月後であってもなお、自治体職員一人当たり4人超の避難所生活者がいます。東日本大震災のピーク時よりも多いのです。

首都直下地震の避難所では、阪神・淡路大震災のような都市部に特有の混乱が、東日本大震災をはるかに上回る規模で起きると懸念されます。水と食料を自宅に確保しておく重要性を改めて指摘しておきたいと思います。


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